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栃・若時代

初対決がいきなりの大勝負、次の対戦も水入りの末二番後取り直しと、栃錦との取組は常に大熱戦であった。技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了し、当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいものであった。

初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、つねに惜しいところで栃錦のために星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。お互いに横綱となってからも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に年六場所となった1958年以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高くこれを上回るものはまだない(朝潮、大内山など強くて個性的な力士が多数居た事も含めて)と考える人も多い。

1959年5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦にもちこみ、逆転優勝。これは史上初めてのケースだった。

1960年3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制して、初の全勝優勝を達成。当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」といわれた。その前夜、若乃花は映画館へと向かった。中に入るとやけに大きな体をしたのがいる、頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。後日談として、この時の映画は若乃花は「西部劇だった」、栃錦は「ドイツの恋愛映画だった」と、証言が食い違っている。一説にはジョン・ウェインの「アラモ」だったのではないかとされている。

栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24、直接の対戦でも若乃花の15勝19敗(うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗)とほぼ互角だった。大関昇進までは11勝が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、横綱時代には.794と地位が上がるにつれて強みを増していった。

しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った朝潮の存在である。1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があった。1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、(結果的に)全6場所制覇をなしとげるところだったが、敗れてしまう。1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝は阻まれた。1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったからだし、1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立ったのだ。

そんな「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは1962年1月場所、関脇だった栃ノ海に負けた相撲であった。倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花が、栃ノ海の見事な連続技(蹴手繰り・巻き落とし・突き落としを一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされたのだった。「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」と若乃花は語ったといわれる。


主な成績 [編集]
幕内在位:57場所(うち小結3場所、関脇8場所、大関10場所、横綱26場所)
幕内通算成績:546勝235敗4分55休 勝率.699
引分が減少した戦後の力士の中にあって4分けは多い部類に入る。そのうち3度までが出羽錦との取組であり、残り1度は前述の延べ17分15秒もの大相撲を取った千代の山戦である。
横綱通算成績:254勝66敗1分54休 勝率.794
年間最多勝(1957年設立):1958年(75勝14敗1分)
幕内最高優勝:10回(全勝1回)
三賞:殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回
金星:6個(羽黒山2、東富士2、千代の山2)
各段優勝:序二段1回(1947年11月場所)、三段目1回(1948年6月場所

引退その後 [編集]
引退すると年寄二子山として花籠部屋から独立、この際に師匠花籠とは連れて行く弟子について話をつけていたのでついて行きたいと志願しても連れて行けない弟子数名を泣く泣く突き放したともいう(その中にのちの龍虎がいた)。部屋での指導の厳しさは大変なもので、稽古の時間になっても起きない弟子がいれば布団を剥がして起きるまで竹箒で殴り、それでも起きなければ布団が赤くなるまで殴りつけたという。親方としてはまだ若かった頃は自らもまわしをつけて稽古土俵に降りて指導をしたこともある。一方で糖尿病を患った隆ノ里に対し、まだ幕下以下の力士であった頃から糖尿病治療食のメニューを認めるというきわめて異例な計らいを行う等、弟子思いの一面もあった。

実弟である大関貴ノ花が横綱北の湖と優勝決定戦の末に初優勝(1975年3月場所)した際、当時まだ審判部副部長であったが、高砂審判部長(元横綱朝潮)のはからいで、優勝旗授与の代役をまかされた(公式には、高砂の発熱によるものとされていた)。

1976年理事に当選すると、かつてのライバル春日野理事長は二子山を重用し、両国新国技館建設の頃は、春日野理事長、二子山理事長代行として相撲協会を引っ張り、幹部の栃・若時代と呼ばれたこともある。

両国国技館が完成すると、春日野は停年まで余力を残して、あっさり相談役に退き、二子山に理事長を禅譲した。出羽海一門が何人も就任した理事長に二所ノ関一門のしかも傍流の二子山が理事長になったことは画期的なことだった。理事長としての業績は、土俵の美を追求して立合いの正常化に努め、「待った」の制裁金導入(後に廃止)や行司に「手をついて」と掛け声させたことが特筆される。
クライマックスは理事長最後の場所で甥であり孫弟子にあたる貴花田が初優勝、実弟大関貴ノ花の初優勝の時のはからいと違い、理事長として堂々と自らの手で天皇賜杯を孫弟子に授与することができ、「夢のまた夢」と語って理事長の有終の美を飾った。停年後は相撲博物館館長に就任するが、1996年9月に所得税の申告漏れを理由に辞任し、相撲界から去った。
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現役時代のライバルが、還暦前後で次々逝去する中で、無事停年を迎えた。弟子として手をかけた末弟貴ノ花に先立たれてしまったが、横綱経験者として鏡里を抜いて長寿第2位となった。今後は初代梅ヶ谷の持つ横綱最高齢記録(83歳)を更新できるかが話題になるだろう。

長男を亡くした後から霊友会に入信しており、他の花田一族も信徒であるという

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2009年03月31日 11:36に投稿されたエントリーのページです。

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