スウェーデン=ノルウェー(スウェーデン語: Svensk-norska unionen, Unionen mellan Sverige och Norge, ノルウェー語: Unionen mellom Norge og Sverige)とは、1814年から1905年に存在したスウェーデンとノルウェーの連合王国である。このとき両王国は、キール条約、ノルウェーの独立宣言、スウェーデンとの短い戦争、1814年8月14日のモス協定、および11月4日のノルウェー憲法改正を経て、一人の君主のもとでの同君連合として結ばれていた。同じ日にノルウェー議会は国王にスウェーデン王カール13世を選んだ。
スウェーデンとノルウェーは過去に2度連合王国を形成していた。それは1319年から1343年の間および、デンマーク人によってカルマル同盟の王に選ばれたオルデンブルク家のクリスチャン1世に対抗した、1449年から1450年の間である。
連合法 [編集]
1815年8月6日に国王の裁可を得た連合法は両国に異なった形で履行された。ノルウェーでは、同法はRigsaktenとして知られる憲法の一部であり、スウェーデンでは同法はRiksaktenとして知られる一般法の諸条項のまとまりである。ヨーロッパ全域で多くの領土の変化をもたらしたウィーン会議においても、このノルウェーとスウェーデンの連合は議論されなかった。フェロー諸島、アイスランドおよびグリーンランドのノルウェー領はデンマークに残された。
ノルウェー人の不満 [編集]
新たな連合にノルウェーは不承不承参加した。当時の文学において、ノルウェーの歴史と文化が賛美されたのはその一つの表れである。ノルウェー農村文化は、スウェーデンによって強いられた連合に対する民族主義的な抵抗の焦点と象徴としての役割を担った。ナショナリズムの感情の成長は、スウェーデンに対する政策のみならず、内政にも影響を及ぼした[3]
Formannskapsdistriktとして知られる地方自治体の形成が、1837年1月14日に議会ストーティングによって可決され、カール14世ヨハンが署名された。同法によって、ノルウェー地方自治政府の承認が行われた。これはノルウェーにとって重要な政治的段階での一つであった。[4]ノルウェー憲法によって必須とされたこの法律は、それぞれの教区(ノルウェー語:prestegjeld[5])が行政区分(formannsskaps distrikt)を形成することを可能にした。これによって、ノルウェー国教会の教区が行政上の区分となり、1837年には373のformannsskapsdistriktが設立された[6]
農村部への自治の導入は大きな政治的分岐点であった。1837年の法令は町と農村の両方に同じ制度を与えることとなった。それは町にとっては取るに足らない出来事であったが、農村社会とノルウェーのナショナリズムにとっては大きな前進であった。[3]
連合の解消 [編集]
ノルウェーで連合による不満が高まるにつれ、議会は満場一致で1905年の6月7日にその分離を宣言した。このノルウェーの一方的な行動はスウェーデンからの戦争の脅迫という問題に直面した。が、8月13日の国民投票 は368,208 対 184という賛成多数によって議会の決議を確認した。カールスタードで交渉が持たれ、9月23日にスウェーデンとの合意によって相互は総動員を停止した。両国の議会は10月16日には『連合法』を取り消し、スウェーデン国王オスカル2世は彼のノルウェー王座に対する主張を放棄した。10月26日にはノルウェーは独立した王国として認識された。
ノルウェー議会はデンマークのカール王子を空席のノルウェー王につけるという議決をし、国民投票で王制が承認された後、カールはそれを受諾した。1905年11月25日、彼はノルウェーにやってきてホーコン7世として即位した。
新王朝 [編集]
関連項目: カール14世ヨハン (スウェーデン王)
カール13世は虚弱で子供がいなかった。彼は後継者にアウグステンボーのクリスチャン・アウグスト公を選び、養子とした。クリスチャン・アウグスト公はノルウェーの副王と、1808年から1809年のスウェーデンの侵攻に対しての抵抗の成功の間、ノルウェー陸軍の総司令官を務めてきた。公のノルウェーでの大変な人気はスウェーデンのノルウェー獲得計画に有利に働くと考えられた。加えて、公はロシア帝国のスウェーデン侵攻を抑え、両国間の領土問題を平和的に解決する事に関して前向きな姿勢であった。公はスウェーデン皇太子として名前をカール・アウグスト・アウグステンボーと変えた。しかし、この新しい皇太子は1810年の5月28日に怪死を遂げた。カール13世は次の後継者にフランスの元帥ベルナドッテを選んだ。養子となったベルナドッテは1810年の11月5日、三階級(Estates of the realm)の尊敬を受けた。
新皇太子は即座にスウェーデンで最も人気がある権力者となった。老王の衰弱とスウェーデン枢密院の不和によって、政府と特に外交のほぼ全体を手中に収めた。彼は当時のスウェーデンの保守派にとって最も敵対的な大胆な政策として、フィンランド大公国放棄を決定した。彼はロシア帝国が決して自発的に大公国を放棄しないであろうということを知っていたし、仮に、フィンランドを再征服しても、スウェーデンが恒久的にそれを保持することができないことをも知っていた。しかし、ノルウェーの獲得がフィンランド喪失を補うに違いないであろう。ベルナドッテ─―今では皇太子カール14世ヨハンとして知られる─―は反ナポレオン勢力についていくためにフランス第一帝政に忠実なデンマークを、そしてノルウェーを懲罰的に攻撃することがスウェーデンの利益にかなうと論じた。
フランス皇帝ナポレオン1世は当然ベルナドッテの態度に不審を感じたが、最初はベルナドッテはナポレオンの命令に従っていた。1810年11月13日、このようにしてスウェーデン政府はグレートブリテンおよびアイルランド連合王国に宣戦布告する事を強いられた。しかし同時にスペンサー・パーシヴァルの下にある英国政府は、スウェーデンは自由に動く事はできず、そしてこの宣戦布告は単なる陽動に過ぎないという事を極秘裏に知らされた。しかし、ナポレオンの要求は次第に耐えかねるものとなり、結果的に1812年のフランス軍によるポメラニア占領で最高潮に達した。スウェーデン政府はこれに対応するために、1812年4月5日、ロシアのアレクサンドル1世との間にサンクト・ペテルブルグ秘密協定(en:Treaty of Saint Petersburg (1812))を締結した。3万人を対仏大同盟の為にドイツに送る代わりに、スウェーデンのノルウェー獲得を承諾するという内容であった。ナポレオンはあわててフィンランド、全ポメラニアおよびメクレンブルクのスウェーデン領有を認めるかわりに、スウェーデンがロシアと敵対する事を要求してきた。
スウェーデン国債の部分的拒否と保守的な新聞条令が注目される、エーレブルー議会(1812年4月?8月)はスウェーデンに一般的な徴兵制を導入し、その結果、皇太子は彼の野心的な政策を実行する事ができた。1812年5月に皇太子はロシア/オスマン帝国間の和平調停を行った(ブカレスト条約)。ロシアがフランスに対して全ての武力を行使できるようにするために。そして7月18日エーレブルーでは、一方の英国側ともう一方のロシア、スウェーデン側の間で講和条約が締結された。
これら2つの条約は実質的にナポレオンに対抗する新しい連合の礎となった。そして1812年ロシア戦役の勃発を受けて、1812年8月30日、Åbo(オーボ)で開かれたアレキサンダーとカール14世ヨハンとの会議によって批准された。
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